(1)慈仙寺

 ○中島本町にあったお寺。中島小学校始まりのお寺。原爆戦災記には記述がないが、いろいろな人の話で分散
   授業が行われていたのはまちがいない。中島地区(今の平和公園)の北側に住んでいた児童が通っていたと
   思われる。

<昔の様子>

 慈仙寺の息子、哲男さん(当時5年生)の話によると、学校から帰ると、小さな子ども達が、お寺にいた。中島小学校の先生も来ておられたそうだ。しかし、どこでどんな勉強をしていたかはよく分からないということだった。

 南草美枝子さん(当時2年生)。家は中島本町にあった。8月6日、美枝子さんのお父さんは爆心地から5キロ、はなれた所にいたから助かった。次の日、お父さんは、自分の家に帰り、焼けあとをさがすと、美枝子さんのお母さんと妹さんの骨はみつかった。しかし、美枝子さんはみつからなかったので、慈仙寺に勉強しに行っていたので、さがしに行った。そうすると、全部焼け落ちた本堂のあとあたりに、10数体の小さな骨が固まっていた。その真ん中あたりに、大きい骨があった。大きい骨は先生だろと思ったそうだ。美枝子さんのお父さんは、小さな骨を拾い集め、あり合わの木の箱におさめた。「ほかの家の人には、申しわけなかったが、どれが、美枝子かわからなかった・・・・」 「爆心」(朝日新聞)より


 爆心地に近い慈仙寺に誰が通ってきていたのか分かっていない。しかし、生き残った人がいないことだけはたしかである。

<今の様子>



 今は平和公園になっている。慈仙寺にあったお墓は、原爆の爆風によって吹き飛んだが、1つだけそのままのじょうたいで残されている。平和公園をつくるのに、土をもって、つくられたが、慈仙寺あとの所だけは元のままの高さで残されている。だから、くぼ地になっている。今では、あそこにお寺があったとは思えないが、あの地で、亡くなった中島小学校の児童がいることは事実である。


 



 慈仙寺はその後、兵隊に行っておられた哲男さんのお兄さんが帰られ、苦労してお寺を再興され、今は江波の皿山にある。

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