(4)昭法寺説教所
○今の慈光幼稚園がある所
○吉島の子どもたちが通っていた。
中高下多吉さんの話:当時4年生
昭法寺説教所にあった分教場に行き始めたのは4年生になってからです。疎開していない5,6年生は中島小学校へ通っていました。先生は重森フユノ先生でした。重森先生の家は説教所のすぐ近くにありました。
8月6日の朝、登校しました。空襲警報があったので家に帰り、解除されたのでまた出かけました。1年生だった弟の幸一と手をつないで行きました。分教場に着いて、外で飛んできた飛行機を見ていた時です。ピカッと光りました。はっとしたとき、刑務所のへいの所から黄色い風がふいてきました。とばされると思って、お寺のへいにかくれました。弟を助けなくてはと、一瞬考えましたが、弟はかべの向こうに飛ばされていたようです。弟が泣きながら出てきました。幸い、けがをしていませんでした。防空ごうに入ろうとしましたが、けが人がいっぱいで弟がこわがるので入りませんでした。分教場はぺっちゃんこにつぶれていました。机の中には教科書などを入れていましたが、取ることはできませんでした。
家に帰ってみると、家がかたむいており、祖母がせなかに大やけどをしていました。そのころのことですので、ぬい合わせた厚い物を着てました。それのせなかに火が付いたのですから、大やけどです。その夜は、はす畑の中でねました。兄と姉もけがをしてました。父は左官町(今の本川)で原爆にあいました。勤めは、府中の方でしたが、その朝は左官町にあった出張所によって行くことになっていたのです。父は、祇園の方へひなんしていました。知らせがあって母が行きました。頭にも体にも大けがをしていました。「家に帰りたい、家に帰りたい」と父が言うので、母が大八車を取りに帰っている間に父は死んでしまいました。8月9日でした。
8月7日、中島小学校へ行って見ました。学校がどうなっているのか知りたかったから舟で行きました。本川を上って行きました。全部焼けて何もありませんでした。川から上にあがれませんでした。腹のふくれた死体がういていて、近寄れませんでしたし、学校のあった所には、何もありませんでしたから。
家が傾いていたので、外でねました。戸板で囲って、蚊帳をつってねました。家は9月の台風でつぶれてしまいました。木を拾って、家を建てました。トタン板を拾って来て、屋根にして。
