こどもたちの がっこう せいかつ

    戦争(せんそう)がはじまると、学校の名前も「中島国民学校(なかじまこくみんがっこう)」とかわりました。教科も国民科、理数(りすう)科、芸能(げいのう)科、体練(たいれん)科などを学び、行進や体をきたえることが多くなりました。

  体育のじゅぎょうでは、手旗(てばた)信号や、なぎなたなども習いました。地理の時間には、東南(とうなん)アジアの地名をおぼえたり、音楽では、飛行機(ひこうき)のエンジン音を聞き分けるくんれんをしたりしました。

  12月14日の義士(ぎし)祭〔赤穂(あこう)四十七士(し)のうち入りの日〕には、朝早く二葉(ふたば)山まで行進し、そこで赤白に分かれて、うでにつけた赤白の紙テープをたたき落とし合うぎょうじもありました。

 
登下校は、はたをもち、町ごとにならんで集団登下校をしました。小さな1年生もざぶとん2まいを合わせたような防空(ぼうくう)ずきんをかぶり、ランドセルと雑(ざつ)のうを、せおって行動しました。空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴ると、急いでにげ帰りました。 
― 中山士朗(しろう)さんの思い出(昭和18年卒)―

  私が中島尋常(じんじょう)小学校に入学したのは、昭和12年である。入学して間もない7月に日華事変(にっかじへん)がはじまった。1年生の時のたんにんの田中先生は、図工の先生でもあったので、よく黒板に白、赤、黄の三色のチョークを使って、戦地(せんち)の兵隊(へいたい)や軍馬(ぐんば)の活やくぶりを絵にしてかき、子どもの私たちに分かりやすくせつめいしてくださった。

  そのころ、私たちは軍馬にあたえるための茶がらをあつめたり、学校のはたけのひりょうとして、軍馬が道にしたふんを集めたりした。

  しかし、戦争がはげしくなったことは、小学生の私たちの生活にもえいきょうが大きく、やがてせんそうにむかうへいたいさんを見おくりに行ったり、宇品(うじな)港にせんそうでなくなったへいたいさんのほねをむかえに行ったりするようになった。

 
後に、学区内でなくなった方の合同慰霊祭(ごうどういれいさい)が学校でおこなわれた時にも、全校生徒がしゅっせきしたが、子ども心にも、戦争のいたましさを感じたものである。

 
戦争がさらにはげしくなり、昭和16年の12月には太平洋(たいへいよう)戦争が始まったが、それより前の3月には国民学校令(こくみんがっこうれい)が出され、小学校は国民学校と変えられた。だから、私たちは昭和18年に中島国民学校をそつぎょうしたことになるのである。

 このように、戦争の色がこい6年間の生活をおくったが、なかでも、毎月一日
(ついたち)の興亜奉公日(こうあほうこうび)に家から持ってきた梅ぼし1この「日の丸べんとう」は、今、思い出しても、ほろにがい、なんとなくおかしみのあるきおくとしてよみがえってくる。(後略) 
   
      戦争がはげしくなり、食べるものがたりなくなってくると、校ていのはしに、いもをうえたり、五日市観音(かんのん)にある学校のはたけでいもをそだてたりしました。高学年ははたけしごとをしたり、時には己斐(こい)の山までウサギがりに行ったりもしました。 きゅう食が出るようになりましたが、みそしるだけで、ごはんは、家からもって行きました。

  ふくそうも女の子は、もんぺをはかなくてはならなくなりました。また、むねにはけつえきがたを書いた名ふだをつけ、必ずひじょう食〔いったまめや小麦など〕の入ったざつのうと防空(ぼうくう)ずきんを、かたにかけて登校したり、外出したりしなくてはならなくなりました。

  学校でも防空ごうがほられました。中島国民学校では、校しゃの下にほられ、子どもたちも校しゃの下に入ってほりました。1945(昭和20)年8月には、中島国民学校は、県庁や県病院などの建物に近いので「建物疎開(たてものそかい)にあたりました。講堂(こうどう)をのこして、校しゃがとりこわされ、8月のはじめには、そのざい木が、校ていに高くつみ上げられていました。