慈仙寺跡の墓石


「原爆供養塔」前の広場を隔てた木立の陰に、小さな池に似た窪地があり、中に古い墓石が立っています。「元禄二年」(1689)と年号が刻まれた古い墓です。

 慈仙寺の墓地があったところで、その中の墓石の一つ、浅野藩重役のものだといわれています。

 池のように見える窪地こそ、被爆前の広島の地面だったのです。現在の公園全体は盛り土で造成され、植樹によって人工的に造られたものです。

 繁華街だった中島地区には、戦後、外地からの帰還、徴用や動員でほかの地域に行っていた人の帰郷などで、たくさんのバラックが造られていました。それが、平和公園建設のため強制立ちのき差せられることになったのです。その立ちのきによってつくられた空き地を整地しながら、次々出てくる遺骨に涙を流し、原爆の被害を語り合う作業の中で、話題になったのがこの「墓石」でした。

 元安川をはさんだやや斜め上空約600mの爆心からたたきつけたばく風によって、墓石の台座は地にのめり込み、本体は浮き上がり、その上にあった五輪がふき飛ばされている様子がうかがえます。

 それは爆風とその直後の反作用による吸引力などで、前後左右に散乱しており、爆風のすさまじさをまざまざと残していました。

 泣きながら骨を集め、まだ遺骨が残っているにもかかわらず盛り土で整地作業をさせられた人々の間で、爆風の威力を物語る墓石をぜひ残しておくべきだと話し合われ、市にかけ合った結果、周囲を石で囲むことになったのです。池のように見えるのはそのためです。墓石をふまぬよう窪地に降り立ち、戦前の広島の街の感触を確かめてみましょう。

 慈仙寺は他の約150基の墓石とともに、現在は、中区江波二本松に、被爆した地蔵像などとともに移転しています。


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