国民学校教師と子どもの碑

 女の先生が死んだ子どもをだいて空を仰ぎ見ています。

 1945年8月6日ころは、広島の小学校では、小学校3年生以上は学童疎開で、また高等科の生徒は動員で、学校をはなれており、児童の大半は、1・2年生でその数は、2000人くらいだっただろうといわれています。

 男の先生は、軍隊にいったり、学童疎開の引率をしたりしていましたので、学校に残っている先生は女の先生が多く、数は200人くらいだったといわれています。

 その年の、夏休みは、8月10日からということで、8月6日には、子どもたちは学校や分散授業の場所へでかけおり、そこで被爆したのです。
 
 この碑は、碑建設委員会の呼びかけに答え、各学校の児童会、生徒会、教師、父母、や県・市から寄せられた募金で建てられ、1972年8月4日に除幕されました。毎年8月4日、この碑の前に市内の児童・生徒・先生や遺族が集い、慰霊祭が行われています。 

 碑の裏の扉には(名前のわかった児童と先生の名簿が納められている。)、短歌が、刻まれています。
    
    太き骨は先生ならむ

       そのそばに
   
        小さきあたまの骨
 
                   あつまれり
   
                 正田篠枝

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