天神町北組の碑
![]() |
![]() |
『昭和20年8月6日 午前8時15分 旧天神町北組は、爆心地に極めて近かったため、一瞬のうちに全滅してしまいました。 当時この町には美しい元安川に沿って、132世帯、約380名の人が住んでいました。 そしてあのせん光、轟音とともにその時家にいた人は一人も生き延びた者は尽く原爆の犠牲になりました。・・・・・・・・・ 被爆前の旧天神町北組は、お医者や旅館、縫針工場や各倉庫、そして酒しょう油、公設市場や衣料品などのお店が並び、日常品は何でも直ぐにそろうようなとても住みやすい町でもありました。 |
![]() |
少し、南の方には、天神様がおまつりしてあり、毎年夏の縁日には夏の風物詩である夜店が並び老若男女でにぎわいました。 また、前を流れる元安川では、潮が満ちるとハゼやフナをつり、ボートをこぐエイトの勇ましい声がひびき、かっぱ連中の格好の水泳場になりました。 引き潮になれば、上流から長いいかだがながれ、大きなひがたが現れて貝をすくい、貝をほる等そこら一帯は子どもたちのよい遊び場になりました。 この思い出深い故郷を一瞬のうちに失った遺族たちは、このゆかりの地を心の故郷として、親子兄弟、身内のものの名をとどめ、亡くなった方のご冥福をお祈りします。』 と、説明版には書かれています。 周りを低い柵とわずかな花で囲まれた碑の上には、この町内で亡くなった人の名前が刻まれています。そばの説明版にあるように,これ以外にも無数の死者がありました。調べても調べても分からない人がたくさんおられるのです。刻まれた名前の中には,姓だけ書かれて「〇〇某」とあるのが目に付きます。「妻」「娘」だけ書かれたのもあります。性別も分からず「子供二人」と書かれたものもあります。 「名前は分からないが,あの家には子どもがいたよ。」「このうちには、男の子がいたよ」残された人たちが記憶の糸をたどりながら明らかにしていったものです。 この碑の建設にかかわられた山崎寛治さんは中島国民学校の卒業生です。 あの日,山崎さんは動員で天神町を離れておられました。しかし,東京から疎開してきていたいとこの賢太郎さんは原爆でなくなっています。「朝は元気に分かれたのに骨すら見つかっていません。」 半世紀過ぎても悔しくてたまらないと、山崎さんは話されます。 |