市立高等女学校慰霊碑
ひざまずく3人の少女。
真ん中の少女は動員当時のはち巻きにモンペすがたで、亡くなったことを象徴するようにその背には天使の翼がつけられています。
左右の少女は、スカート姿で今を生きる人々を表しています。1人は花輪を持ち、もう1人は鳩を手にしてなくなった少女をやさしくなぐさめるしぐさをしています。
「現在」の少女がなくなった少女をなぐさめるこの図柄だけのこの碑には、「原爆」「慰霊」の文字はありません。
真ん中の少女が両手にかかえている箱の表面に、「E=MC2」とアインシュタインのとの相対性原理からとられた原子力エネルギーの公式が彫られているだけです。原爆の文字が使えないため、湯川秀樹博士のアイデアにもとづいて工夫されたといいます。
1948年の3周忌を記念して遺族会の手で「平和塔」として校内に建てられました。しかしGHQの考えもあって、一時、戸坂のお寺「時明院」に移さなくてはなりませんでした。しかも、少女たちを描いた表側が見えないように、かべに向かって建てられていたといいます。
生徒たちが被爆したこの場所に、郊外のお寺から碑が移設されたのは、サンフランシスコ講和条約後の1959年のことでした。
碑の説明
当時、市立女子高の二年生の城子さんを亡くされた坂本文子さんはこうお話されています。
今は平和公園になっているのですが、終戦前にはたくさんの家が立ち並んでいました。強制建物疎開といって建物を壊して空き地を作ってました。ずっと家が続いていたら、爆弾が落ちたときにずっと燃え広がるので空き地を作って火を止めようとしていました。
私の娘の城子は、この市女の二年生だったのです。たくさんの家を兵隊さんが来て、皆引っ張って倒しました。そして、倒した大きいものは運んで、後の木切れとか瓦の端くれとか、そんなものを運んできれいにするために、ここへきたんです。十三になったばかりの私の娘は、ほんとかわいい盛りでした。あの日、朝七時過ぎに今の噴水のところへ集まって、校長先生から訓示を受けて、作業に取りかかったんです。それからまもなく原爆にあったわけです。
私たち夫婦は、子どものことが気になり、午後三時に江波を発って舟入川口町にある学校に行ってみると、校舎がペチャンコになっているんです。そこにだれかのお父さんらしい人が来て、「探しに行ったけど、市女の生徒はもう市女の生徒じゃない。みんな生徒は全滅だ。」とおっしゃったんです。
私も主人と、建物疎開をしている今の平和公園の方に向かって、裸足で歩きました。万代橋のあたりまで来たら、もう死体の山ですね。山といっても山となっているんじゃなく、みんな倒れているんです。
ハッと考えて私は、転げている女の子の顔を覗きながら、ズーと「城子ちゃん、城子ちゃん」と言って土手の方に行きました。土手をズーと名前を言って歩きましたら「ここに、おるよ・・・」と言ったんです。「ここに、おるよ」と言っても虫の息みたいなんですから聞こえないんです。
やっとのことで倒れている人をかき分けて、子どものところへ行ったら、ちょうどひざから下が水につかっていました。私がふと見ましたら「ここにおるよう.もう死ぬよう」って私に抱きついていました。見ると、もう、自分の子かどうかわからないようなんです。
というのは、頭が熱線で、髪がちりちりになっているんです。お釈迦さんの頭みたいで、頭のまん中が全然髪がなくて、はげのようになっていたんです。そして、もちろん上着がないんで、資料館のみたいに皮膚がたらあっと両方の腕から垂れ下がっているんです。火ぶくれのような。そして、目が本当に糸のように細いんです。「見えるの?」と聞くと「見えるよ。」って目を開けるようにして言いましたからね。その時は原爆で死ぬとか、どういうようになるかわかりませんからね、きっと助かる、早くお医者さんに見せたら助かるんじゃないかと瞬間思いました。
病院のお医者さんにみてもらおうとしてもいっぱいでことわられ、江波の小学校のお医者さんにみてもらいに行く途中で、急に「水を飲ませてちょうだい。」って言ったんです。「水を飲んだら死ぬんだ。」ということを聞いていたんで「水を飲んだら死ぬんだ。」ということを聞いていたんで「水を飲んだら死ぬから、水を飲んだら駄目よ。もっと我慢しなさい。」って言ったんです。そうしたら、城子が「朝から川の水をたくさん飲んだから水をください。」といったので、きれいな水を飲ましてやったんです。焼けていない家に水をもらって。
そうしたらそれを「おいしいよ。」といって飲みまして、もう何も言わなくなって・・・・・・・手だけは私の手を握っておりましたけれども、多分その時に死んだんじゃないかと思うんです。
現在は、もう皆さんは映画やお話などいろんなもので見たり聞いたりして、原爆のことはよくご存知だと思いますけど、私たちはその中をその日に裸足でくぐって廻ったわけです。その時の様子をしっかり見ているから、お話を聞いていただいて、戦争はいけない!やめてほしい!それから核のことを考えてほしいと思います。相手の気持ちの分かる人間になってほしいと思います。
また、二年生の仁子さんを亡くされた山崎益太郎さんも次のように話されています。
身の毛もよだつ。あの日、あの時。 思えば、遠い昔の出来事のような感じもするし、昨日のような気もする。口ではじゅうぶんに言えぬ、もちろん書き尽くすこともできない。
あの朝私は、小町中国配電会社で被爆を受け、顔に負傷して脱出しました。私の家は当時中島の天神町にありました。市女の二年生であった仁子がその朝、学徒動員で水主町へ建物疎開あとの整理に出ていたので、その安否が気になり、その方へ出かけた。
なんたる悲惨、無残にも、何十何百の少女たちが傷つき、眠り(実は亡くなっているのかも)、ウメキ・・・・・・・・・・
こうして可憐な少女たちは罪もないのに、戦争の犠牲になり、この世を去った。
ともかく、私は仁子を見つけた。もちろん、身体は焼けただれ、わずかに腰のあたりの手ぬぐいのはし切れと、名札と腰下げが残っている。膚は黄色となり顔はうずばれていた。「おとうさん、のどがいたい。」私は川の水を手ですくって飲ませた。今思えば当然、放射能入りである。仁子を背負い牛田の親戚の家に行くことにした。水が腰のあたりまであり、倒れそうになる。兵隊さんに舟に乗せてもらい、向こう岸に渡してもらった。ここで少し休んで、子どもを背負う。様子がおかしい。こときれていたのだ.何ともいえようのない思いだった。
『安らかに眠ってください』といっても原水爆全面禁止をしないかぎり原爆犠牲者は、うかばれない。
『過ちは繰り返しませんから』とはだれがいうのか。この碑が外国特にアメリカの人が建てたならともかく、
原爆被害者である我々には悲憤と嫌悪とを感ずるものである。
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