1,建物疎開って、どうすること?
空襲の時、火災が広がらないように建物を壊し、空き地を作っておくことです。
臨時議会で「新防空法」が決められ、1944年から始まりました。
1945年3月10日の「東京大空襲」以後は、待ったなしの強引さですすめられていきました。
疎開の通告を受けたら、早くて5日、遅くても15日以内に、家財いっさいまとめて立ち退かなくてはなりません。 かわりの土地も家も自分で用意しなければならなかったのです。
「一週間以内にここを立ち退き、他へ家を探して引っ越ししてください。」
こんな命令が突然きたら、あなたはどうしますか?
1945年7月には、中島小学校の近く(県庁があった)や、今の平和大通りの近くの家々には次々とこんな命令がきました。
中島町に住んでおられるYさんのお話。(戦争中は旧水主町))
家の葬式で福山へ帰っていたら
「弟、死す。すぐ帰れ」
の電報が届きました。
驚いて広島へ帰ってみると、弟は元気です。建物疎開に当たって一週間以内に立ち退かなくてはいけないので、電報を打ったというのです。「手伝いに帰れ」という文では電報を受け付けてもらえないので、文面を変えたというのです。7月25日のことです。
夫は戦地にいっていない。残された義母、姉、妹、中学生の弟で作業をしなければいけません。
引っ越しは吉島町。引っ越し先はせまいので、家財道具の一部は己斐の知人の家にも運びました。大きなお皿は重くて運べないので庭にうめました。
トラックはありません。荷車で何度も何度も運びました。夏のことで、昼間は暑くて仕事ができないので、朝4時頃から仕事を始めました。
広島では、1944年11月18日、政府から家屋の疎開を指示された。これに基づき,1944年末までに400件の建物疎開が完了した。
1945年に入り,2次 2154件,3次 1400件,4次 2180件,5次 167件と実施され,8月には第6次 2500件が実施された。
<建物疎開作業の様子>
中島では、兵隊や義勇隊の大人が、まずかわらを除き、柱をのこぎりで切り、柱やはりにロープをかけて引きたおす。動員された生徒たちが、引きたおしされた建物を片付けました。
昔からの立派な柱にのこぎりを入れたり、つい先日まで住んでいた人がいたのにロープをかけて引っ張るのは、つらい仕事でした。
と、中島国民学校におられた、二森先生は、「しのびぐさ」に、その時の様子を書かれています。