どんな人が建物疎開の仕事をしていたの?

  1945年8月 広島市内では,空襲に備えて、市内中心部を東西に貫く 幅100メートルの防火帯をつくるため、建物疎開作業が進められていました。
 この日も臨時に召集された地区特別警備隊や国民義勇隊、国民学校高等科・中学校・高等女学校の1・2年生による動員学徒が、朝早くから作業にとりかかっていました。
 建物疎開作業は、市の中心部であり、しかも屋外の仕事であったため当日動員された子どもたち約8400人のうち、約6300人が原爆の被害にあいました。
 市内・郡部からの義勇隊の被害は明らかになっていません。

こんなに たくさんの人が 犠牲になったの?

      義勇隊の碑 裏面                                                                                       



市立女学校の碑の裏面

中島地区で仕事に動員されていた生徒は、約1865名と言われています。

中島地区動員学徒の被害は、次のようになっています。
                                                                                                                                                                               

学校名〈現在学校名〉

出勤場所

死亡者数

被 爆 前 後 状 況

第二国民学校

(市立観音中学校)

木挽町

生徒 約250名
教員   5名

全23学級中5学級が建物疎開に従事。引率教員が死亡したため詳細は
不明。生徒のうち3名のみ遺体の確認ができる。

県立広島第二中学校

(県立観音高等学校)

中島本町

生徒 322名
教員   4名

1年生6学級全員が建物疎開に従事。本川河岸に整列して訓示中に被爆
した模様ほとんどが遺骨の判別もできなかった。

県立広島工業高校

(県立広島工業高等学校)

中島新町

生徒 192名
教員   3名

1年生4科が建物疎開に従事。一人ひとりの遺品の確認は不可能で物陰
に置かれた衣服や弁当箱の焼け残りを遺品として持ち帰った。

市立第一工業学校

(現在廃校)

水主町

天神町

生徒  27名
教員   2名

東洋工業と油谷重工業に動員中の生徒の一部がそれぞれの職域義勇隊
とともに建物疎開に従事。全員が死亡した。

市立造船工業学校

(市立広島商業高等学校)

材木町誓願寺付近

生徒 194名
教員   5名

1年生が瀬川倉庫の建物疎開に従事。作業中に気分が悪くなって県病院
に診察を受けに行った1名を除き、全滅した。

市立第一高等女学校

(市立舟入高等学校)

木挽町

生徒 540名
教員   7名

1、2年生全員が西福院土塀前に集合して作業中だった。引率後所用で
尾長町に向かうため現場を離れた校長を除いて、全滅した。

崇徳中学校

(崇徳高等学校)

天神町

生徒  35名
教員   1名

祇園町の油谷重工業に動員中の3年生と付設科の生徒が、油谷重工業義     
勇隊とともに従事していて全滅した。

松本工業学校

(瀬戸内高等学校)

水主町

生徒  24名

大洲町の藤川製鋼所に動員中の1年生約70人が工場作業の関係で皆実
町と水主町の二手に別れて建物疎開に従事していた。

安田高等女学校

(安田学園安田女子高等学校)

水主町

天神町

生徒 256名
教員   5名

1年生全員と2年生の一部が水主町と天神町の建物疎開に動員されていて全員死亡した。

山陽商業学校

(広島山陽学園山陽高等学校)

天神町

生徒 約20名
教員   1名

宇品造船に動員されていた3年生約20人が天神町の建物疎開の従事し
手、全員が死亡した

新庄中学校

(新庄高等学校)

天神町

生徒  5名

祇園町の油谷重工業に動員中の生徒が、油谷重工業義勇隊とともに従事
していて全滅した。

                                       (公園の下に眠る街、爆心地・中島地区)より

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