あの日,中島国民学校で被爆して生き残った子どもたちもいます。



原爆が落ちたとき中島小学校にいて生き残った人の話



◆梶山哲男さん(中島本町)・・・・中島国民学校5年      

 その日の朝、梶山さんは七時半に家を出ました。
授業前なので、講堂の2階で、友達とさわいでいました。
そこへ原爆が落とされたのです。

 爆風で講堂はたおれましたが,気づいた時は、柱に少しおさえられているだけでした。
すぐぬけだして、ぺしゃんこになった講堂の屋根づたいに下に下りました。
火のない南の方に逃げようと思って、校門の所へ来た時、
自分の家の2階に部屋を借りていて同級生だった熊川正美君や2、3人の児童がいました。
みなはだしでした。
 舟入から通っていた西野(はっきりと名前は覚えていない)という同級生もそこにいたので、
正美君とその同級生と3人で、その同級生の家の方に逃げることにしました。
舟入にあるその家に寄って少し休みましたが、2人は相談して慈仙寺に帰ってみることにしました。
 舟入川口町から天満川の土手に出て、川すじをたどり、天満川にかかる鉄橋に出ました。
その途中で、たおれていない家があり(その家はどこにあったか思い出せない)、
そこの人からおにぎりをもらいました。                                                
 その後、どこかで少しねたように思います。
そして、電車の線路を目当てに歩き,相生橋に着きました。
 慈仙寺の通りは火の海で入れません。
その時少しの間でしたが、ばらばらと雨(黒い雨)に打たれました。熱いので、本川の川原側にそってうめ立てしてあった砂地を通り,慈仙寺に近づこうとしました。
そうすると、うめ立ての砂地から川へ下りる石段の所に、だれか立っていました。
近づくと、「哲男か・・・・」と声をかけられ、その声でお母さんと分かりました。

 爆心地で原爆の直撃にあった人たちは、その熱で服や顔が焼けただれ、様子が変わり、
家族のものでさえ見分けがつかないほどでした。
声を聞いて初めてお母さんだと分かったといいます。
梶山さんがその時見た母親は、顔形は変わっていたが、衣服はあまり焼けていませんでした。
しかし、頭や腹などにひどいきずがありました。
「お父さんは庭でたきぎをわっていたが・・・お父さんの様子を見に行ってくれ ・・・」
と言われました。正美君が
「うちのおかあちゃんは・・・・」
と聞くと、
「台所」
と言われた。

 梶山さんは,先ず、お父さんをさがしに行こうと思い、庭の方に行こうとしました。
しかし,くずれた寺の大きな柱からさかんに火が出ていて、とても近寄れませんでした。
台所の方は火がありませんでした。
そばに寄ると、焼けあとの中に、すわったような形の人の体がありました。
足もとは焼けた柱にうまり、上体は、白骨化していました。
 正美君はそれを見て、
「おかあちゃーん。」
とおいおい泣きだしました。
 その夜、梶山さんは、お母さんと正美君といっしょに
砂地のうめ立て地につくられていた防空ごうの中で眠りました。
 次の日、さがしに来た親類の人に連れられて、安芸郡の中野という所に行きました。
母親はその日に死にました。内臓が飛び出したような状態でよく生きていたと思います。
いっしょだった正美君はさがしに来た親類の人に連れられて九州の方へ行ったと聞いきましたが、
その後,どうなったかは分かりません。

 その後、兵隊に行っていた兄が帰って来て、母親の実家、九州へ行きました。
ひふにぶつぶつが出たり、体の調子がすぐれなかったりしました。
兄弟や親類の人など何人もの人から、輸血をしてもらったりしました。そうして、少しずつ元気になっていきました。

 1946年(昭和21)4月、広島へ帰ってからは、中島小学校ではなく、本川小学校に1年おくれで通いました。
ですから、本川小学校の卒業生になっています。
今まで、ふと、小学校の頃に知っていた人に出会うこと機会が何度かありましたが、
それは本川小学校でいっしょだった人で、中島小学校でいっしょだった人とは会ったことがありません。
(きっと自分だけが生き残っているのではないかと思います。)

★梶山さんは「原爆爆心地」(中国新聞社発行P67〜)の中にもあの日のことを語っておられます。
  その原稿のコピーは,多目的教室準備室資料棚にあります。


◆山家和子さん(元木挽町)・・・・中島国民学校5年生    

 わたしは、今は土屋病院になっている辺り、木挽町に住んでいました。そこが、建物疎開になり、横川に家が変わりました。
でも,転校するのがいやなので中島国民学校へ通っていました。
当時、姉が千田町にあった貯金局へ勤労奉仕に出ていましたので、いっしょに電車に乗り、
鷹野橋でおりて、そこから歩いて中島国民学校へ通っていました。
帰りは、姉の所へ行き、またいっしょに帰っていたのです。

 あの日、登校途中の電車の中で、警かい警報を聞きました。
でも、ひきかえしてもこのままでも同じなのでそのまま学校へ行きました。
 学校へ着いて、講堂の軒下の所で中山さん(天神町の薬局)、藤川さんと3人で話していました。
その時、空から白い落下傘が落ちてくるのを見ました。
 「気持ちが悪いね」
と言って、講堂の中に入りました。
 どうしてか分からないけど、とっさに目と耳をおさえて3人でふせました。
そばにおられた重森先生の「あっ」という声が聞こえたのを覚えています。

 顔をあげると、黄金色の世界で、ご真影があった方は、黄金のちりが降るようにきらきら光っていました。
それは,本当ににきれいな光景でした。
2・3秒してからでしょうか「ドーン」という音とも何ともいわれない大きな衝撃があり、
ザザザーと講堂がくずれてきました。
真っ暗で1センチ先も見えなくなり、気がつくと、しーんとした世界でした。
しばらくじっとしていましたが、光がさしてきたので、くずれておおいかぶさっていた物を肩で払いのけ、外へ出ようとしました。
 その時、だれかが、
「山賀さん、和ちゃーん」
と声をかけたので、ふり返えると、がれきにうまっている子がいます。
抱きかかえるようにしてその子を引っ張り出しました。
けがをしていたのでしょう、胸から腹にかけて服が血で真っ赤でした。
「ついてくるんよ。」
と言い、講堂の外へ出ました。

 外に出ると、学校前の文房具屋の子どもが泣いていました。
神田先生、養護の先生に出会い、まだくずれていなかった学校のへいの上を歩いてわたり、飛びおりて、外へ出ました。
そこで両手からぼろをぶらさげたようになっていた6年生の女の子に出会いました。
(たぶん登校途中で被爆し、直接原ばくの熱線を浴びたのでしょう)
 先生2人と6年生の女の子と4人で南に逃げました。
住吉橋をわたって、舟入本町の方へ逃げました。その時はまだ火の手は上がっていませんでした。
舟入まで来ると自分のかっこうに気がつきました。肩に救急ぶくろ・防空ずきんをかけ、手には、勉強道具の入ったかばんをしっかり持ったままでした。
「すてようか。」
と、先生に言うと
「すてんちゃい。」
と言われたので、かばんを舟入本通りの道のそばへそっとおきました。
 観音橋、西大橋、旭橋をわたって己斐へにげました。己斐のほうの橋は、上が土をかけたままでした。
「止まるな。」
「止まったら落ちるぞ。」
と言われたのでさっさとわたりました。
 己斐の山で黒い雨にあいました。
そこに、飛行機がやってきて、ダ、ダ、ダとうつ音を聞いて、山へしがみついたような記憶があります。

 その後、楽々園の収容所へ行き(トラックで行ったと思いますが、記憶がはっきりしません。)、
6年生の女の子とはそこで別れました。
そのあと石内の方へ行き、ある農家の納屋にとめてもらいました。
その家で、家は横川だというと、横川の避難先は安だといわれ、その家のおじさんが、次の日に、安まで連れていってくれました。
先生とはそこで別れました。

 安小学校へ着いて、そのあと、どこかの家に連れて行かれました。
そこには1つ年下の女の子がいて、大事にしてもらってすごしていました。
ゆかたを着せてもらったことを覚えています。
 母親は、偶然に三滝の方で二森先生と会い、先生から
「ぎりぎりまで学校にいて、残っている児童は全部にがしたが、その中に山賀さんはいなかった。」
と言われ、もう死んだものと思っていたそうです。
横川の家は焼け、親類は広島市内にしかなかったので、たよる所がなく、一家は避難先の安小学校へ行ったのです。
 安の避難先の子と川で遊んでいると、そばを女の子を連れた女の人が通りがかりました。
(お母さんによく似ているけど、こんなところにお母さんがいるわけがない)と思って遊びを続けていました。
しかし、よく見ると母親と姉だったのです。母もはじめは、(よく似ているけどまさか和子ではない。)と思っていたそうです。
 8月6日に家を出てから、1週間後ぐらいの出会いでした。

 父は土橋に勤労奉仕で出ていて被爆し、横川へ帰り、三滝で兄嫁と出会って、安に行く途中だったのでしょうか、
祇園の方で死んだそうです。8月7日だったそうです。
母と妹と下の弟は知り合いのひっこしの手伝いに行っていたので、助かりました。
家にいた長男のおくさんと姉の子どもは家のはりの下じきになって、死にました。
長女と3才の弟は後から引っこしの手伝いに出かけ、横川のふみ切りのところで原爆が落ちて死にました。
長男も十日市の通勤途中でなくなり、貯金局へ行っていた姉もあついガラスが体中ささって似島に運ばれて死にました。
祖父は、宇品に住んでいましたが、あの朝、うちへ来るといって家を出てそのままです。
きっと電車の中だったのでしょう。骨も見つかっていません。

 わたしは、火の手があがる前逃げたので、広島が焼けていくところは見ていません。
家族をさがし回る間、たくさんの死んだ人を見ました。死んだ人を並べ、、ガソリンをかけて焼いていくところも見ました。
ずっと思い出したくなくて、家族の者にも今まで一度も話したことはありません。
ほとんどけがもしないで広島の町から逃げたわたしですが、
9月になって、41度もの熱が続いたり、血のかたまりをはいたりし、原爆症の症状が出ました。
熱にうなされ、
「にゅうどう草を飲ましてくれ」
と何度も言ったそうです。
にゅうどう草(どくだみ草)を飲んで毒を全部体から出したのでしょうか、元気になりました。
一時は、弱って、弱って、「便所で和ちゃんが死んどる。」と大さわぎになったこともありますが、
ほんとうに奇跡的に元気になりました。

 父、兄と働き手を失い、まだ幼い者ばかり残り、生活が大変だったので、大阪のおじの所へ行きました。
「ピカドンがきた、ピカドンがきた」
と“いじめ” にもあいました。
今から考えるといじめられたそこでの生活が一番しんどかったです。


◆新庄 了さん(吉島町)・・・中島国民学校6年生

 「原爆の子」p221〜
 高等学校3年の時,当時の事を思い出して書いておられる。


コピー・・・多目的教室準備質資料棚


◆中村 厳さん(中水主町)・・・小学校5年生

 中島国民学校の児童ではないよう。たぶん疎開していたと思われる。
ちょうど病気で中島国民学校の近くにあった家に帰っていて原爆にあう。
学校の周りの様子がよく分かる。
高等学校2年の時,当時の事を思い出して書いている。


原爆の子」p118〜 コピー・・・多目的教室準備室資料棚